うしろめたさも
橋本愛が主演をつとめた映画「Little forest」のワンシーンで(正確には覚えていませんが)、夜に甘いモノを食べるシーンで太ることに対し若干の後ろめたさを感じるものの、
「ちょっとしたうしろめたさも味のうち」
といって、甘いモノを美味しく味わっている様子が描かれていました。
この記事を書いている8月中旬、ずるずると続く雨のせいで蒸し暑い日々が終わりの気配も見せず、室内に干さざるを得ない洗濯物とともに過ごしています。
食欲が湧かないからお米も炊かないし、おかずだけでちょっと食べ、でもそうすると夜10時にはわずかな空腹が精神を支配してくる。そんな時、この身体に寄り添ってくれる存在。それがまさしく「うしろめたい時間に食べるアイス」なんです。
アイスの魅力は「向かいのホーム 路地裏の窓 こんなとこにいるはずもないのに」という、one more time,one more chance な食べ物であることだ。ないないと思い冷蔵庫をのぞき、予想に反してその姿を見つけたときの愛おしさったら、ない。
上部の包装にアイスが持って行かれないように優しく剥がしながら、一番美味しいパリパリのチョコとナッツを少しずつ味わう。そして食べ進むと、さくさくとしたコーンと、近年特に改良が進んだのが、アイスとコーンの間のチョコの存在感。ここをきちんと見直しをし、存在をはっきりとさせたことで、「後半に弱い」ジャイアントコーンの弱点を完全に克服した。
特にめざましい成長を遂げたのは黄色で、ミルクの濃厚感も以前より格段にあがっている。上のクッキー部分の美味しさ故に、圧倒的な”青”推しだったのだが、内部に敷き詰められたパリパリチョコのポテンシャルに気づき、最近は完全に”黄”推しになっています。
しあわせのチョコだまりはその言葉どおり、本当にわずかに”しあわせ”を感じさせてくれる食べ物。「うしろめたさも味の内」っていう言葉どおり、わずかな後悔を胸に抱えながら、また一本、今日もピリピリと包装を剥がすことになりそうです。
なぜ、私ではないのか
天才は、人を優しくそして存分に利用し、決して人に依存しない。そんな人に寄り添おうとする人は、「わたしがいなきゃだめなんだ」と決して思えないからやりきれない。
映画「グラン・ブルー」鑑賞。
ダイバーであるジャック。彼の人生は、全て海に育まれた。別れ、自立、プライド、すべて真っ青な海の中で感じたこと。海の中こそが自分の生きる場所、そう悟っている。
ジョアンナは、彼に恋した。彼ってサイコー。仕事を放り出して、全ての愛を彼にそそぐ。だが決して自分に振り向かせることはできない。なんで海なのよ...私の愛が届かない、私の愛ではどうしてだめなの、と思う。ジャックは優しいが、最終的には自分を選ばない。気持ちを整理できないジョアンナは、泣き叫んでお願いする。
そんなジョアンナにジャックは微笑み、真っ暗な海の底に沈んでいった。
私にはこれがないとだめなんだと思うもの。スポーツ、景色、富士山、果物。それらの中でしか生きていけない。そんな人たちがいる。彼らが見せてくれる景色は、なんであんなに圧倒的な美しさや心地よさ、魅力を映し出してくれるんだろう。
美しさへの憧れと依存は、人間の本能といってもいい。天才は、それを追い続けることが出来る人。大人になった僕ら凡人は、簡単に妥協する術を身につけてしまった。美しいものだけを選びながら生きていくことはできない。だけども、ほんのわずかなくだらない選択を積み重ねている人生には、常に後悔がつきまとうことにも気付いている。
夜と霰(今週のお題「これって私だけ?」)
今週のお題「これって私だけ?」
「仕事でうまくいかなかった時、別の仕事の道を歩み始め、今の居場所を華麗に立ち去る姿を想像する」これだな。
これって「むかつく奴と喧嘩したとき、華麗に相手を打ちのめす姿を想像する」という学生時代に頭の中に思い描いていたのとおんなじ。僕の先手は、物を遠距離から投げまくる攻撃。すべて相手にクリーンヒットする。想像の世界でも逃げの姿勢は変わらないトホホな奴である。浅はかな願いだ。
こういう想像をどこかしておかないと、頭の中のモヤモヤが消化不良を起こしてしまう。モヤモヤはいずれ、身体にも影響を及ぼす。去年の係長は、モヤモヤをうまく消化することができず、年末年始酒に溺れ、2月まで生死をさまよっていた。僕らは、一日一日切り替えなければならない。
悩むのは決まって夜。仕事から帰った後にリラックスできる時間をとるということは大事だと思う。外が暗くて静かだから、自分が暗くなるのも夜。酒に逃げれない僕は、ロッテのチョコパイで一日をリセットできなければ、果たしてどうなっているだろうか。
母のゆりかご
親が子供を喜ばせることに比べて、子供が親を喜ばせることはどれほど簡単なことか。
という言葉を、どこかで耳にしたことがある。
母が検査入院した。本人、そして家族が思っていたほど大したことはなかったものの、体調不良の原因はまだ分かっていない。人に迷惑をかけることがなによりも耐え難いと思っている母。入院前の診断で可能性にすぎない病状を聞かされただけで、「どうしよう、職場に迷惑をかけてしまう、どうしよう」と軽いパニックに陥っていた。
入院先とは兄も僕も離れている。別々ではあるが病院に向かった。まあ大したことはなさそうだしよかったじゃんと言うけれど、不安は消えない。まあ病院にいる以上当たり前な気もするけれど、不安定な気持ちが伝わる。
母はこんなに弱弱しかっただろうか。ベッドで横になり続けていることが、果たしてこんなにも人を衰弱させるとは思わなかった。体を起こすのも大変そうな中で、運動しろ運動しろ、といったってそんな気が起きるわけもない。小さなウォーキング大会とかに一緒に出るように勧めた。すると少しだけ、ノってくれた。
というか、あれだな。楽しみが子供しかない人だったから、僕たち二人兄弟が出て行った後、老いてしまうことは必然だったのかもしれない。
去り際
僕「それじゃあ、お大事に」
母「何それ冷たい。家族に言う言葉じゃないやろ」
僕「だったら、なんて言ったらいいんよ」
母「兄ちゃんは“気を付けて”っていってくれたよ」
僕「じゃあ“気を付けて”」
母「はい」
と、分かれた。“お大事に”っておかしいかなあ...
アラサー男性は結婚式座席表の夢を見るか
「結婚式参加してくれますかね?」
一通のメールが、昨夜携帯を震わせた。2kbの揺らぎ。
後輩からだった。他の友人の招待状と同時期だったため返信したつもりになっていた。悪い悪い...そういえば彼の余興を担当することになっている。案を(早く)だそう。
今夜は職場の同期二人と、近況報告をかねて回転寿司に向かった。お互い幸せな報告が聞けそうだったので、一皿108円ばかりではなく324円のものも豊富に流れているお店。それだけでも、ちょっと贅沢な気分。ぐるぐる回る丸いお皿から、美味しそうなネタを選り好みする。これが僕たち、地方のアラサー男子の生態。
結果からいうと、お互いの報告は生ぬるい温度で進んだ。こんな歳にもなると、自分としては「よっしゃぁぁあああ。楽しぃぃぃいいいいい。ハッピーだぜぇぇぇええええ!!」と思っていても、その気持ちを100%表すことはできない。ダサいな。「何浮かれてるんだよ」「こんな歳にもなって、こいつアホやろ」と思われるのではないかと頭をよぎり、慎重に言葉を選んでしまう。それもダサいな。微妙な沈黙を交えつつ、お互いを軟らかい言葉でたたえ合いながら、丸い皿を重ねていく。大トロサーモン、フレッシュサーモン、たまご、エビアボガド、炙りサーモン、トロサーモン。サーモンばかり。
この頃は、結婚式での余興を依頼されることも増えた。そんな話から、自分が結婚式を開くならどんな風にしようか、テーブルにどんな風に座ってもらうか、そもそも誰を呼ぶか、誰と誰を隣にするといいとか、いやこの人呼ぶのどうしようかなあとか、みな、彼女もいないというのに。なぜか早すでに人を選り好みしている。
人である以上、選り好みはあるかもしれない。回転寿司のネタを選ぶように、柔らかさや硬さといった基準で吟味し、理想の形を作ろうとしている。だが果たして、人間関係における理想を口にすればするほど、現実にぶちあたったとき、もがくのは自分なんだろーなと思いながら、チョコケーキでフィニッシュした。
俺は誰かになれない
行きつけの洋服屋さんが、松山に一軒だけある。
「各ブランドとも、アイデンテティーは保ちながら、今年共通しているのはクリーンなイメージ」といったお話を聞きながら、2時間ほど過ごし店を後にした。
ここでの買い物の後はいつも、惨敗したような気分になる。
なぜか。服の買い方において「モノしか見ていない」ということを、突き付けられるからだ。女性は「あ、これかわいい」「なんとなく、いいな」といった、ノリで買い物してるにもかかわらず、はずさない。自分のことを穴が開くまで考えて、どう見せればいいのか分かってるから。
僕はそれが出来てない。自分のイメージをうっすら分かっているつもりなのだけれど、ひょっとすると所有欲ベースで買い物をしているのかも。モードの服を試着もせずに、これ着れないわー、こっちのスタンダードな服を着ればこうこうできそう...という妄想だけを膨らませ、ベーシックなものを買ってしまう。それは自己満足を満たすだけの買い物なので、気分の高まりも一瞬。同じことを繰り返す。諸行無常の響きあり...Babourを長いこと着てても血にも肉にもならない。ガマン強いだけ、ってことなんだろうな。
ファストファッション、自分の好きなブランド、百貨店のパパたちのブランド。色んなものを見よう。あとは、白と黒のバランスに気をつける。それが今の気分だ。